「東洋医学」とは?―「東洋医学」なるものの軌跡―
はじめに
いわゆる「東洋医学」は、中国独自に発展した医学体系であり、我が国へは、随時、中国から輸入され続けて来たもので、「中国伝統医学」および「東アジアに伝播した周辺の医学」とするのが一般的な認識であろう。しかしながら、「東洋医学(Oriental medicine)」と呼び習わすのは日本だけのようであり、海外ではそのように考えるものはほとんどいない。では、日本でのみ認識される「東洋医学」なるものは、どのように形成されてきたものであろうか。
1.「東」
春秋時代の政治家で啓蒙思想家、儒学の創始者である孔子(姓は孔、諱を丘、字は仲尼;BC552?-BC479) と門弟らとの言行録とされる『論語』公冶長(こうやちょう)には、「子 曰く、道 行なわれず、桴(小さいいかだ)に乗りて海に浮かばん…、と」とある。孔子が世の不道徳な状況を嘆いて絶望し、同行した弟子の子路に向かって現実逃避の自虐的なジョークを飛ばしたシーンであるが、たとえそれがジョークであったとしても、孔子は東シナ海にちっぽけな筏(いかだ)を漕ぎ出して、どこへ向かいたかったのであろうか。
紀元1世紀ごろに成立した中国最早期の字書である後漢・許慎(きょしん)『説文解字』東部には、「東とは、動くなり。木に从(したが)ふ。官溥(かんぷ;人名とされる)の説に“日 木の中に在るに从ふ”と。凡(およ)そ東の属は皆な東に从ふ」とある。
また、3~4世紀ごろに成立したとされる中国最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』海外東経には、「下に湯谷(とうこく)有りて、湯谷の上にして扶桑(ふそう)の十日にして浴する所有りて、黒歯(こくし;国の名)の北に在り。水中(海の中に浮ぶ島にあるという意味)に居(お)りて、大木有り。九日にして下枝に居り、一日にして上枝に居り」とあって、海に浮かぶ島の中の「湯谷」、すなわち温泉が湧く谷の上に「扶桑」という神木があるという。
前漢の初代皇帝・劉邦(りゅうほう;BC256?-BC195)の孫にあたる淮南王・劉安(りゅうあん;BC197-BC122)が子飼いの学者ら(蘇非・李尚・伍被ら)に編纂させた『淮南子(えなんじ)』天文訓にも、「日は暘谷(「湯谷」と同じ意味か)に出(い)でて、咸池(かんち;太陽が日の出前に沐浴する池のこと)に浴し、扶桑を払(す)ぐ、是れを晨明(しんめい)と謂ふ。扶桑に登りて、爰(ここ)に始めて将(まさ)に行(ゆ)かんとす、是れを胐明(ひめい)と謂ふ」とあり、太陽が扶桑の木から登ってくることで朝になると考えられていたことが分かる。
西晋(265~316)・陳寿(ちんじゅ;233-297)が著した魏・呉・蜀の歴史をまとめた『三国志』魏書・倭国伝(通称『魏志倭人伝』)には、「倭人は帯方(たいほう;朝鮮半島にある魏国の領土)の東南の大海の中に在りて、山島に依りて国邑を為す。…女王国の東、海を渡ること千余里にして、復た国有りて、皆な倭種なり。又た侏儒(「こびと」の意味)国有りて其の南に在り。人の長さ三・四尺にして、女王を去ること四千余里。又た裸国・黒歯国有りて、又た其の東南に在り。…」とあって、「黒歯国」が邪馬台国の東南に位置する倭国の島々のうちの一つであることも知られていた。いわゆる「お歯黒」も日本文化の古来の習俗であったようである。
孔子はパラダイスとされる伝説の「日の出づる国」に行きたかったのであろうか。
2.「砭石」
『素問』異法方宜論には、「故に東方の域は、天地の始めて生ずる所なり。魚塩の地にして海浜の水に傍(そ)ふ。其の民 魚を食(くら)ひて鹹(しおから)きを嗜む。皆な其の処に安(やす)んじて、其の食を美(うま)しとす。魚なる者は人をして熱中せしめ、塩なる者は血に勝つが故に、其の民は皆な黒色にして理を疏くするなり。其の病は皆な癰瘍を為して、其の治は砭石(へんせき)に宜(よろ)し。故に砭石なる者は、亦た東方従(よ)り来たる」とあるように、砭石は海辺の民の膿瘍の切開から発生したとする。これだけならば純粋な医療行為のように見えるが、たとえば、この手術痕に化膿防止のための薬物を塗布することが「入れ墨」の目的の一つとなり、膿瘍の予防のために事前に入れ墨をする習俗が生じた可能性もあろう。また、前述した『魏志倭人伝』にも、「男子は大小無く、皆な黥面(顔の入れ墨)・文身(身体の入れ墨)す。…今、倭の水人は沈没して魚蛤を捕るを好み、文身は又た以て大魚・水禽を厭(おさ)ふ」という。
入れ墨は5000年前の縄文土偶にも見られるが、砭石治療ともルーツを一にし、ともに日本から伝来した可能性が示唆される。
3.海域としての「東洋」
元・汪大淵(おうたいえん;1311~?)の旅行記的地理書『島夷誌略(とういしりゃく;1349)』には、東南アジア方面の海域を海洋貿易の拠点である泉州(福建省・泉州市)を中心に、それより東方の海域を「東洋」、西方(実際には南西)を「西洋」と記載されていた。おそらく、中国3大発明の一つである羅針盤が外洋航海に利用された北宋時代ごろからの慣用された用語であったものと思われる。この場合の「東洋」とは、中継地でもあったボルネオ島のブルネイと泉州を結ぶ線の東側、およびボルネオ島の東岸以東の海域を意味していた。また、台湾島、琉球列島、日本列島方面は「小東洋」などとも呼ばれた。
なお、近世以降の中国語においては「東洋」とは「日本」そのものを意味したが、江戸後期以後には「山脇東洋(やまわきとうよう;1705-1762)」など、これを人名として使用するものが多く現れた。さらに、日本においては宣教師らが持ち込んだ世界地図を手本にして日本語化され、多くの世界地図や地球儀が製作されたが、囲碁棋士で天文学者でもある江戸・渋川春海(しぶかわしゅんかい;1639-1715)の『世界図』が太平洋を「東洋(小東洋・大東洋)」としたのが最初であり、それまで海域に名前を付ける習慣が日本にはなかった。英語の「Pacific ocean」の日本語訳として「太平洋」が一般化するに及び、海域としての「東洋」は自然消滅した。
海域としての「西洋」の語は『世界図』にもあるが、江戸・新井白石(あらいはくせき;1657-1725)『西洋紀聞(1715)』によって「ヨーロッパ(とくに「西欧」)」を意味するものとして人口に膾炙した。ここに地域としての「西洋」の初出を見る。
明治以降、オリエント(orient)の訳語として「東洋」が頻用されるようになると、日本語としての「東洋」が中国語にも影響するようになり、中国語としての「東洋」は、事実上「日本」、あるいは軍国主義時代の「大日本帝国」および「日本人」を意味するようになり、日本兵を意味する「東洋鬼」など、特に侮蔑的な意味を含む用語として使用されるようになった。
4.「acupuncture;moxibustion」
オランダ人の出島商館医ヴィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhyne;1649-1700)は、日本滞在中(1674-75)の経験をもとに『鍼術について(De Acupunctura;1863)』を表し、「鍼術」の訳語(オランダ語)として「acupunctura」を創案した。その意味は「acus(ラテン語;尖ったもの→針)+pungere(ラテン語;突き刺す)」である。したがって、「鍼治療」の訳語として一般的に使用される英語の「acupuncture」は本来、江戸時代の日本の鍼術を語源としており、中国の鍼治療とは無関係である。
灸治療についても、『日葡辞書(にっぽじしょ;1603;イエズス会発行)』には「moxa(→もぐさ)」とあり、すでに戦国時代ごろからは用語としては存在していた。しかし、その利用法までは正確には伝わらず、焼き鏝(ごて)を皮膚に当てて火傷を起こし、化膿させて排膿を促す当時のヨーロッパの一般的な治療法の一つであった「火のボタン(botão de fogo;ポルトガル語)」と混同された。
オランダ商船の船医として来日したドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kämpfer;1651-1716)は、日本人医師による灸治療を実際に体験している。「灸治療」を意味する英語の「moxibustion」は「moxa(もぐさ)+combustion(燃焼→英語)」の合成語であり、「艾炷を燃焼させる(治療法)」という意味である。
したがって、英語で「acupuncture and moxibustion」といった場合には、本来は「日本伝統鍼灸」を意味しており、伝統的な中国の鍼灸医療とは全く無関係である。
5.「日本型乾性穿刺(Japanese dry needling)」
「dry needling (ドライ・ニードリング;乾性穿刺)」という用語は、1947年にJ.D. Paulett (ポレット)が『ランセット(Lancet)』誌に発表した論文に始まる。これは腰痛(Low back pain)に対して、従来の麻酔薬による注射療法(wet needling)よりも、薬液を注入しなくとも注射針を刺入するだけで鎮痛効果が得られるという内容であった。さらに、1843年にFroriep(フローリップ)によって発見されていた筋肉中に発生する索状の過敏点について、1983年のTravell(トレベル)とSimons(サイモンズ)によって筋筋膜性疼痛症候群(MPS)に起こることが認識され、「トリガー・ポイント(trigger point)」と命名された。
近年、欧米では、トリガー・ポイントに対するドライ・ニードリングがペイン・クリニックの一手法として確立しているが、これは伝統的な鍼灸療法とは全く無関係に発達したものであり、すでにアメリカでは現代中医学的理論による腧穴への鍼灸治療は鍼灸師(acupuncturist)だけが行い、西洋医学的理論によるトリガー・ポイントに対する治療は「理学療法士(PT)」だけが行うように、明確に住み分けがされている(州によっても異なる)。
日本では明治以来、国策によって鍼灸治療の西洋医学化が図られていた。江戸時代後期には、杉田玄白(1733-1817)らによって「経絡=神経(「神気の経脈」の意味)」説が唱えられていたこともあり、医師は鍼灸の治効メカニズムの西洋医学的解明を、鍼灸師は古典文献の西洋医学用語への翻訳を行っていた。さらに、明治末期から大正時代にヨーロッパからデルマトーム学説が輸入されるに及び、日本鍼灸の西洋医学化がそのピークを迎えた。昭和初期になって行き過ぎた西洋医学化の反動から伝統鍼灸復興運動が起こり、「経絡治療」が盛んになったが、戦後の昭和40年代ごろからペイン・クリニック系の鍼灸治療が見直され、再びドライ・ニードリングが注目されるようになった。
21世紀現在の日本では、主として日本型西洋医学的鍼灸治療(すなわち日本型乾性穿刺)と経絡治療などの日本独自の伝統的鍼灸、および近代日本鍼灸を逆輸入して再構築された現代中医鍼灸の3方式が併用されている。
執筆
浦山 久嗣
日本伝統鍼灸学会 副会長
仙台赤門医療専門学校 鍼灸マッサージ東洋医療科 非常勤講師
(2025年4月1日より 仙台赤門短期大学 鍼灸手技療法学科 准教授)